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Your Way to Understanding Islam

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人の役に立つことをしなさい

人の役に立つことをしなさい

2020-04-20T08:10:01

アッラーの別名の1つにアル・ナーフィウ(裨益者)があります。だから人間も役に立つことをしなくてはいけません。「下町ロケット」というドラマを見ると、本物の技術で社会に役に立つことに誇りを持つ職人の生き様を感じます。一見するとすぐに役に立ちそうにないものでも、長期的には役に立つ、だから半端なものを作らない。本物にこだわる日本人の気質を見ました。私は日本刀と刃物の町関市で生まれ育ったのでよくわかります。この気質をイスラームの信仰に転換すれば、本物の神だけに従うことの意味がわかります。「アッラーの他にかれらが祈っていたかれらの神々は、あなたの主の命令が来たとき、かれらに何も役に立ちませんでした。そしてかれらは、ただ破滅を助長するだけでした」とクルアーン11:101にあります。本物の神はアッラーのことですが、これまでお伝えしてきたように、アッラーとは99の名前(価値)のことです。例えば、感謝すること(アル・シャクール)、保護すること(アル・ワキール)、真理を追求すること(アル・ハック)、人の役に立つこと(アル・ナーフィウ)などです。この価値は時代や場所に囚われず、ぶれることのない永遠の価値を有します。その価値を現世において体現することが、ムスリムの使命であり、アッラー(究極の価値)を信じているという意味なのです。その具体的な体現方法は、預言者の生涯から学ぶことができますが、時代や生きる環境とともに状況は変わる(そもそも日本はアラブ社会とは違う)ので、まず価値のレベルまで昇華させることが必要です。そうすれば、イスラームは時空を超えて、どの人種や民族にも役に立つ宗教なのです。

預言者ムハンマド最後の説教

預言者ムハンマド最後の説教

2020-04-14T23:32:23

西暦632年、預言者ムハンマドは メッカ巡礼のときに、アラファにおいて最後のフトバ説教を行ないました。   そしてこの説教が行なわれた「別れの巡礼」には、 多くのムスリムが預言者に同行していました。   この説教の内容は今でもあせることなく、 神の全人類に対する、そして人類のお互いに対する 最も重要な権利の一部について触れられています。   預言者ムハンマドは最後の説教で、 アッラーを称賛し、そしてアッラーに感謝した後、 こう言われました:   「人びとよ、よく聴きなさい。というのも私はこの年以降、 再びあなた方と共にいられるかどうか分からないのですから。   ゆえに私の言うことを注意深く聴き、 この言葉を今日この場にいない者へと伝えるのです。   人々よ、あなた方がこの月、この日、 この町(メッカ)を禁忌があると見なすように、   全ムスリムの生命と財産は(互いに)禁忌のある信託なのです。   あなた方が託された品物は、 その正当なる所有者へと返しなさい。   またあなた方が害されないよう、他人を害してはなりません。   あなた方が主アッラーに会うこと、そしてアッラーがあなた方の行ないを 全て記録していることを思い出しなさい。   またアッラーは、あなた方が利子(リバー)を取ることを禁じました。 ゆえに利子を伴う全ての義務は今後、あなた方の元本を除いて放棄されます。   あなた方は他人を害することもありませんし、 不公平を被ることもありません。 アッラーは利子の撤廃を定められ、 そしてアブドルムッタリブに関する 全ての利子も今後、撤廃されるのです。   あなた方は宗教を守るため、悪魔に注意しなさい。 かれは、大きなことにおいてはあなた方を迷わせる ことができないと絶望しています。だから小さなことにおいて、 悪魔に従うことに気をつけなさい。   人びとよ、あなた方があなた方の女性に対し、 ある権利を有しているのは確かですが、 彼女らもまたあなた方に対する権利を有しているのです。   アッラーの信託とお許しの下に、あなた方が、その妻を 自分のものにしたことを思い出すのです。 彼女らがあなた方の権利を守る限り、 彼女らには、親切に、衣食を与えられる権利があります。 […]

知識を探求することの重要性

知識を探求することの重要性

2020-04-14T23:32:22

慈悲あまねく慈悲深いアッラーの御名において イスラームは教えます。ムスリムは生きている限り、生涯学習者であり、知識を求めることやめてはいけませんと。知識を求めることは宗教的および道徳的義務であるだけでなく、継続的な義務でもあります。 クルアーンのターハー20:114は言います: وَقُل رَّبِّ زِدْنِي عِلْمًا 主よ、知識を増やしてください。 預言者は残りの人生の知識を求めることに費やし、この務めをすべてのムスリムの義務としました。 Sunan Ibn Majah 224、Sahihによると、 アナス・イブン・マーリクは伝えています。アッラーの使徒は言いました: طَلَبُ الْعِلْمِ فَرِيضَةٌ عَلَى كُلِّ مُسْلِمٍ 知識を求めることは、すべてのムスリムにとっての義務です。 イブン・カスィールによるタフシール・アルクルアーン・アルアズィームによると イブン・ウタイバは言いました: 「預言者は、高貴なるアッラーが、彼の魂を奪うまで知識を増やし続けました」 預言者自身が彼の死まで知識を求めていたなら、私たちはさらに学ぶ必要があるのではないでしょうか? 信仰の光は、アッラーの啓示と自然の神秘についての知識と理解のための飽くなき探究心を生み出します。私たちはアッラーの知識(ナクリ)、特にすべてのムスリムが宗教を正しく実践するために知る必要があるものを追求するべきです。私たちのコミュニティと人類全体に利益をもたらす科学的知識(アクリ)も必要です。 アル・ガザーリは、自然科学、特に医学をウンマ(ムスリム共同体)に対する集団的義務(ファルド・アル・キファーヤ)に指定しました。 対照的に、不信仰の暗闇は、魂そのものを犠牲にして、もの、お金、そして一時的な喜びに飽くことのない欲求をもたらします。 Al-Tabarani, al-Muʻjamal-Kabīr10239、グレード:Sahihによると、 Abdullah ibn Mas’udは伝えています。アッラーの使徒は言いました: 知識の探求者と現世の探求者という2つの懸念の探求者は決して満足しません。 Ṣaḥīḥ Ibn Ḥibbān 6352, Grade: Hasanによると アブー・フライラは伝えています:アッラーの使徒は言いました。 ムーサーは彼の主に尋ねました:あなたのしもべの中で最も知識のある人は誰ですか。アッラーは次の ように言いました:自分の知識に満足しておらず、自分に人々の知識を加える学者です。 知識を探求することは必要ないと考える人は、すでにどれだけ知っていても無知なのです。すべての学者は学生のままでなければなりません。そうでなければ、彼はもはや学者ではありません。 Shafi Imam al-Shayraziのal-Majmū’ Sharḥ al-Muhadhabによると、 Saeed ibn Jubairは言いました。 人は学んでいる限り知識を持ち続けます。彼が知識を捨てて、すでに十分だと思えば、そのとき彼は無知になるのです。 知識が常に必要であることを認識することは、謙虚な態度です。事実、人の知恵の割合は、謙虚さの割合に直接比例しています。 イブン・アッバースは伝えました:アッラーの使徒は言いました: Al-Ṭabarānī、al-Muʻjamal-Kabīr12771、 […]

聖書に記されたムハンマド

聖書に記されたムハンマド

2020-04-14T23:32:21

https://www.youtube.com/watch?v=iIEc1Kr3sxQ イスラームの視点から見るとイエス(イーサー)はムスリムです。また偉大なる預言者であり使徒という位置付けになります。ただしイエスは神性を持った神の子ではありません。ここがキリスト教徒の信念と合わない点です。もう1点は、キリスト教徒はムハンマドを最後の預言者として認めません。イスラームとキリスト教には多くの共通点がありますが、この2点は乗り越えるのが困難な点です。つまりキリスト教徒はイスラームの最も重要な言葉「ラーイラーハイッラッラー、ムハンマダンラスールッラー(アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である)」に合意できないのです。 しかし、聖書を読むと「アッラー以外に神はなく、ムハンマドは来るべき預言者である」ことが記されています。時間の制約もあるので、本日は後半部分の「聖書に予言されたムハンマド」に焦点を当てます。ではなぜこんなことをするのでしょうか?クルアーン7章157節に次のように記されています。 「かれらは文字を知らない預言者、使徒(ムハンマド)に追従する人たちです。かれ(ムハンマド)はかれら(啓典の民)の持っている律法と福音の中に記されて見出される人です」とあります。つまり聖書の律法と福音書の中にムハンマドについて記されているとクルアーンは言っているのでそれを証明するためにお話しするのです。 もう1つの理由があります。それは昨今のエルサレム帰属問題ついて緊張が高まっているからです。これは明らかにムスリム世界に対する挑発であり、宣戦布告をしているわけです。そんなことは誰にでもわかるのです。だからこそもう一度、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教の関係をムハンマドという共通点から見直してみたいと思ったからです。 預言者ムハンマドの出現は、ユダヤ教およびキリスト教両派がもれなく聖書正典と認める旧約聖書の申命記18章18節に次のように予言されています。「わたし(神)は彼らのためにその兄弟たちの中から、あなたのような預言者を起して、わたし(神)の言葉をその口に授けよう。彼はわたし(神)が命じるすべてのことを必ず彼らに話すであろう」とあります。重要なポイントは「その兄弟たちの中から、あなたのような預言者を起して」にあります。キリスト教徒によると「あなた」はモーセを示しており「モーセのような預言者」はイエスに他ならないと解釈します。では、どのようにイエスがモーセのようであるのかとたずねると、両者は共に預言者でありイスラエルの民だと言います。ところが同じ類似点は、イエス以外の預言者にも当てはまります。例えば、エゼキエル、イザヤ、ソロモン、ダニエル、ホシヤ、ヨエル、洗礼者ヨハネなどは、預言者でありイスラエルの民です。だから「モーセのような預言者」を1人に特定できません。さらに申命記34章10節によると「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった」とあるので、そもそもイエスは、モーセのような預言者になり得ません。 では、一体誰が「モーセのような預言者」なのでしょうか?「その兄弟たちの中から」に手がかりがあります。兄弟だけれどイスラエルの民でない、となるとモーセのいとこ、でもイスラエルの民ではない預言者ムハンマドが有力な候補者と考えられます。事実、モーセとムハンマドを比較すると、少なくともイエスにはない6つの類似点をあるのです。第1にモーセとムハンマドは両親の子として生まれましたが、イエスは父親なく生まれました(マタイによる福音書1章18節)。第2に、モーセとムハンマドは死後、再び地上に現れませんが、イエスの再臨については聖書に多く記されています(例えば、ヨハネによる福音書14章1-3節、マタイによる福音書16章27節、24章30節)。第3に、モーセとムハンマドは結婚して子もいましたが、イエスは結婚せず子もいませんでした。第4に、モーセとムハンマドはそれぞれ律法、シャリーアという新たな法を導入しましたが、イエスはモーセの律法を受け継ぐためにつかわされました(マタイによる福音書5章17-18節)。第5に、モーセとムハンマドは法の執行者でしたが、イエスは「わたしの国はこの世のものではない」と言って、法を執行することはありませんでした(ヨハネによる福音書18章36節)。第6に、最終的には共同体の長となったモーセとムハンマドと比べて、「自分の民は彼(イエス)を受けいれなかった」とあり、イエスは最後まで共同体の長になることはありませんでした(ヨハネによる福音書1章11節)。このような点から、イエスはモーセにほとんど似ておらず、ムハンマドが「モーセのような預言者」にふさわしいことがわかると思います。 また申命記18章18節には「わたし(神)の言葉をその口に授けよう」とあり、ムハンマドと関係していることがわかります。ムハンマドが最初の啓示を受けたとき、アッラーから「読みなさい」と言われて「読めません」と答えました。彼は文字の読み書きを知らず、アッラーは「口に」啓示を授けたと考えられます。クルアーンはアラビア語のキラア(詠む)から派生した言葉で、「読誦されるもの」という意味ですが、「口に啓示」「読誦が可能」とも解釈できるのです。 別の証拠もあります。ヨハネによる福音書14章16節には、ムハンマドが別名「助け主(Comforter)」として予言されています。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父はもう1人の助け主を送って、いつまでもあなたがたと共に おらせて下さるであろう」とあります。キリスト教の学者は助け主とは聖霊のことであるという立場を堅持します。しかし聖書によると、助け主と聖霊は関係ありません。ヨハネによる福音書16章7節によると、「わたし(イエス)が去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それ(助け主)をあなたがたにつかわそう」とあります。ここには「助け主」がイエスの後にくると記されています。でも、聖霊はイエスの前から存在しました。ルカによる福音書1章41節によると「エリザベスがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベスは聖霊に満たされた」とあります。エリザベスの子は洗礼者ヨハネ。つまり、イエスより前に生まれた洗礼者ヨハネのときから聖霊が存在したことになるので、イエスの後にくる「助け主」は聖霊ではないことがわかります。 ではイエスの後にくる「助け主」は誰なのでしょうか?本来であれば、「助け主」の語源にまで遡ると答えが見えてきます。ところが、イエスの母語であるアラム語で書かれた単一の聖書原典が不明なので、語源をつきとめることができません。問題解決として逆に発想します。つまり、ムハンマドの語源から助け主の語源を類推するのです。なぜそんなことが可能なのでしょうか。理由は2つあります。第1に、単一のアラム語聖書原典がない以上、聖書の用語や解釈も1つではないはずだからです。第2に、前に述べた「あなたのような預言者」が、ムハンマドを示すことが論証されたからです。 クルアーン61 章6節はムハンマドを別名「アフマド」と呼んでいます。アフマドはアラビア語名詞のハムドゥ(称賛)もしくは動詞のハミダ(称賛する)の派生形で、その意味は「称賛に値する者」です。「マルヤムの子イーサーが、こう言った時を思い起せ。イスラエルの子孫たちよ、本当にわたし(イエス)は、あなたがたに(つかわされた)アッラーの使徒である。わたしより以前に律法を確証し、またわたし(イエス)の後に来る使徒の吉報を与える。その名前はアフマドである」アラビア語の「アフマド(称賛に値する者)」を聖書正典の言葉であるギリシア語に訳すとペリクリトス(PERIKLYTOS)になります。一方、聖書によると、英語の「Comforter」はギリシア語のパラクレトス(PARAKLETOS)が語源です。両単語は音声的に類似していることがわかります。聖書には多くの写本が存在し、翻訳も長年にわたって細かい改訂を重ねてきたことを考えると、ペリクリトス→パラクリトスの転訛(てんか)が生じた可能性が高いのです。 また、パラクレトスには「助け主」の他に「執り成し」や「唱道者」という別の意味もあります。ムハンマドの言行録によると、最後の審判のとき、多くの預言者の中でも、ムハンマドだけがアッラーと人間との間の「執り成し(シャファーア)」を認められると記されているので、ペリクリトスであれパラクリトスであれ、ムハンマドが「助け主」と推断できるのです。また、ムハンマドはイエスの後に来たので、「わたし(イエス)が去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこない」というヨハネによる福音書の言葉と矛盾しません。 さらに、一部アラム語の聖書原典は見つかっています。例えば、ベブライ語とアラム語の死海文書(紀元前3世紀〜紀元1世紀)、数年前にトルコで発見されたアラム語のバルナバスの福音(紀元6世紀前半)は有名です。教会はこれらアラム語の書を正典として認めていませんが、死海文書に記されたイザヤ書42章1節には次のようにあります。「わたしの支持するわがしもべのアフマド、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊魂を彼に与えた。彼はもろもろの異邦人(非ユダヤ人)に道をしめす」とあります。またバルナバスの福音の英語訳書89ページと97ページには、「ムハンマドは神の使徒」とはっきり記されています。 まとめると、聖書の申命記18章18節には、ムハンマドが「あなた(モーセ)のような預言者」として記され、またヨハネによる福音書14章16節には、ムハンマドが「もう1人の助け主」として記されているのです。そして、クルアーン7章157節の「かれ(ムハンマド)はかれら(啓典の民)の持っている律法と福音の中に記されて見出される人です」という言葉は正しいということが証明されたのです。だから関係が悪化している今こそ、キリスト教徒とユダヤ教徒に対するダワー(イスラームへの招待)が大切であり、これまで以上に必要とされていると私は思うのです。

イスラームにおける幸せの法則

イスラームにおける幸せの法則

2020-04-14T23:32:20

人間は不幸になるために生まれてきたのではありません。幸せになるために生まれてきまし た。イスラームとはアッラーを味方にする生き方で、アッラーが味方につけば、人間はこの 世とあの世で幸せになるという成功の法則でもあるのです。 クルアーン 3 章 160 節いわく「もしアッラーがあなた方を助けるならば、あなた方に打ち 勝つ人はいないのです。もしかれがあなた方を見捨てるならば、かれの他に誰があなた方を 助けることができるでしょうか。だから信者たちは、アッラーに全幅の信頼を寄せなさい」 とあります。アッラーが味方につけば、人生の最強カードを手に入れることになります。 またアッラーを味方にするとは、アッラーが喜ぶことをするということです。5 章 119 節 「アッラーは言いました。この(審判の)日は正直者が正直ゆえに得をする日です。かれら には川が下を流れる楽園があり、永遠にその中に住むのです。アッラーはかれらに満悦し、 かれらもまたかれ(アッラー)に喜悦します。これこそが大勝利(大成功)なのです」 さらに 10 章 26 節・27 節にも次のように記されています。「善行をした人には最高の報奨 があり、また追加もあります。暗さや恥辱がかれらの顔を覆うことはありません。これらの 人びとは楽園の住人で、かれらはその中に永遠に住むでしょう。でも悪を稼いできた人びと には、同等の悪の報いがあります」 つまり、アッラーが喜ぶこと(善行)をすれば、この世とあの世において良い報奨があり、 アッラーが怒ること、喜ばないこと(悪行)をすれば悪い末路があるということで、これを 「アッラーの因果応報」と呼ぶことができるのです。 アッラーの喜ばれることとは、具体的に、まずアッラーを信じることです。そしてムスリム (ムスリマ)とはアッラーの命令に従って生きる人びとのことをさします。アッラーの命令 とは、クルアーンという形で現在の私たちもその内容を知ることができます。たとえばクル アーン 2 章 177 節には、「(アッラーに)正しく仕えるということは、あなたがたの顔を東 または西に向けることではありません。正しく仕える(人びと)とは、アッラーと最後の日、 天使たち、諸啓典、預言者たちを信じ、愛着あるとしてもその財産を、近親、孤児、貧者、 旅人、物乞い、奴隷の解放のために費やし、礼拝の務めを守り、定めの施しを行ない、約束 したときは約束を果たし、また、不運や逆境、そして危機に際してよく耐え忍ぶ人びとです。 これらの人びとこそ真実(に従うところ)の人びとであり、これらの人びとこそアッラーを 注意深く意識するのです」とあります。これら善行がアッラーの喜ばれることなのです。 またアッラーの喜ぶことは、「アッラーとかれの使徒ムハンマドに従うこと」と言い換える こともできます。4 章 69 節「アッラーと使徒に従う人は誰でも、アッラーが寵愛を与えら れた預言者たち、誠実な人たち、真実の証人たち、そして正道にある人たちと一緒になるで しょう。かれらは何とすばらしい仲間でしょうか」とあります。 アッラーの命令を守ることで、来世だけでなく現世における幸せも得られます。16 章 97 節いわく「誰でも善行をし(真の)信者ならば、男でも女でも、われらは必ず幸せな(現世 […]

なぜイスラームなのか?

なぜイスラームなのか?

2020-04-14T23:32:19

イスラームとはアラビア語のサリマから派生した言葉で、安全・平安・平和であること、害がないこと、アッラーに従うことなどを意味します。つまりアッラーに従うことで平和や平安を実現することがイスラームなのです。  平和を実現する方法については、様々な宗教がいろんなことを言っています。では、なぜあえてイスラームなのでしょうか?例えば、学校の日本史や世界史の教科書には改訂版がたくさんあることをご存知でしょうか?私が高校生の頃、世界史のイスラーム文明のセクションでは、コーランという表記できたが、今はクルアーンに変わりました。マホメットもムハンマドに変わりました。アラビア語原語の発音に近くなることで正しさが増したわけです。辞書も同じく最新改訂版を使うのが一番いいです。 例えば、1955年に出版された有名な辞書の広辞苑は、もともとは1935年に出版された辞苑でした。辞苑か広辞苑か?選ぶとすれば広辞苑ですね。なぜなら改定されているからです。同様に、聖書におけるエローヒムについても、創造主、唯一であること、偉大であること、偶像がないことなど共通点があっても、創造主の言葉についてそれより詳しい情報があれば、当然そちらの教えがいいわけです。クルアーン以上に詳しく創造主アッラーの記された書物はこの世になく、アッラーの教えの最新改訂版であり、最後の改訂版だとムスリムは信じているわけで、だからあえてイスラームなのです。

どうやったら礼拝に集中できるか?

どうやったら礼拝に集中できるか?

2020-04-14T23:32:18

サラートは善行へのプログラミングです。一般的にイスラームにおけるサラートは、日本語で礼拝と訳されます。しかし礼拝はサラートの正確な意味を完全に反映していません。なぜなら礼拝とは神様を拝むこと、敬うことを意味しますが、サラートとは単に神様を拝むこと、敬うことにとどまりません。サラートとは唯一神のアッラーに感謝すること、彼の導きを求めること、そして悪行を遠ざけ、私たちの心や魂を洗濯すること、そして善行へのプログラミングです。しかし「今から善行へのプログラミングに行ってくる」と言っても、誰も理解してくれないかもしれません。だから便宜上礼拝という言葉でかまわないわけです。ただしサラートの意味は礼拝以上の含みがあることを忘れないでいただきたいのです。 プログラミングとは、コンピュータへの指示を書くことです。コンピュータに「こうやって動いて欲しい!」と伝えるための行動のことを「プログラミング」と言います。もし人間の脳をコンピュータと例えるならば、人間の脳はこの世で最も高度で洗練されたコンピュータです。私たちはアッラーの最高の被造物なのです。クルアーンの95章4節によると「ラカド・ハラクナル・インサーナ・フィー・アフサニ・タクウィーン」(本当にわれらアッラーは、人間を最も美しい姿に創った)とあります。人間に伝えるべきプログラムが「アッラーの言葉」であるクルアーンです。クルアーンの言葉のように考え、動くように私たちの脳と心に指示する方法が、サラートなのです。 心理学者によると、私たち人間は自分の意識を完全に管理することはできないと指摘します。もちろん私たちの体は100%私たち自らが管理できます。例えば右手を上げようと思えばできます。下ろそうと思えばできます。しかし意識は100%できないのです。あちらへとこちらへと意識が動くのです。皆さんも経験があるのではないでしょうか。サラートをしている途中、集中できず意識があちこちへと動いたという経験です。 例えば、ビジネスマンであれば、契約のことが気になる、いくら儲かるとか支払いのこと、車のオークションのこと、会議の約束のことなどに意識が行きます。家にいる奥様であれば、今日は家族のために何の夕食を作ろうかと意識が行きます。さらにはサラート中、子供が騒ぎ始め、赤ん坊が鳴き始めると、そちらに気を取られてしまいます。学生であれば、授業のこと実験のことに意識が行きます。学校のテスト後にサラートをするときは、サラート中にテストの解答について意識が行きます。「問い2の選択肢はBではなくAだったかもしれないとか」思い出すのです。そうこう考えているうちに、サラートが終わってしまうのです。 それで今何ラカート目だったのか忘れてしまうのです。3ラカート目だったかな?4ラカート目だったかな?サラートのときに、意識があちこち動くことは普通に経験することです。 ではなぜ意識はゆらゆらするのか?なぜなら私たちの意識は空っぽだからです。一方で意識は空っぽではいられないからです。だから考えが行ったり来たりするのです。ムスリムはサラートで唱える言葉を記憶しています。スーラ・アル・ファーティハ、その他いくつかのスーラもしくはアーヤです。あまりに機械的に記憶しているので、どんなに眠たくても、または起きて寝ぼけた状態でも、スーラ・アル・ファーティハは高速で読むことができるのです。だから脳の中でもほんの一部しか機能させなくてもいいようになっているのです。考えなくても出てくるのです。私たちは、ほとんどがアラブ人ではないので、クルアーンの音を暗記しただけでは意味がわかりません。意味を意識しないので、そこでは意識があちこちへ動く可能性が大きいわけです。 だからアラビア語で読み上げる部分の意味を1つ1つ理解していくことが大切になってきます。もしベンガル語が母語であるならば、ベンガル語の翻訳を思い出してください。もし英語が母語であるならば、英語の翻訳を思い出し、もし日本語なら日本語の翻訳を思い出すことが必要です。例えば、日本語の場合、⑴ビルミッラーヒッラフマーニッラヒームは「慈悲あまねく慈悲深いアッラーの御名において」となります。⑵アルハムドゥリッラーヒ・ラッビル・アーラミーン「全存在の主アッラーにすべての称賛あれ」⑶アッラフマーニッラヒーム「慈悲あまねく慈悲深いお方」⑷マーリキヤウミッディーン「最後の審判の日をつかさどる方です」⑸イイヤーカナ・アブドゥ・ワ・イイヤーカ・ナスタイーン「(わたしたちは)あなただけに仕え、あなただけに助けを求めます」⑹イフディナ・スィラータル・ムスタキーム「わたしたちをまっすぐな道に導いてください」⑺スィラータッラズーナ・アンアンタ・アライクム・ガイリル・マグドゥービ・アライヒム・ワラッダーリーン(その道とはあなたが恵みを与えた人びとの道であり、怒りをかうこともなく、迷ってもいない人びとの道です) スーラ・アル・ファーティハ、その他いくつかのスーラもしくはアーヤをアラビア語で読むと同時に、自分がわかる言葉で意味を翻訳することで、心があちらこちらに動くことを防ぐことができます。なぜなら、意味を思い出すという行為によって、意識を集中させることができるからです。もちろんこれを何週間、そして何ヶ月も続けると、これもまた機械的に暗記してしまうことになります。しかしアラビア語だけのときと比べれば、アラビア語で読み、その翻訳を心で読み、その意味を考えることで心がより集中することには間違いはずです。

アッサラームの意味

アッサラームの意味

2020-04-14T23:32:17

アッサラームはアッラーの名前の1つですが、これには2つの意味があります。 1つ目は、完全無欠:完璧なるお方 2つ目は、平和・平安と安全を与えるお方、という意味です。 サラームとサラーマとは、言語学的にバラーアを意味します。 すなわち自由であること、潔白な状態、安全であることです。 サラームの語根はスィーン・ラーム・ミームで実に170回クルアーンに登場します。 「アッサラーム」という言葉はクルアーン59章23節に記されています。 「かれこそがアッラーです。かれの他に神はいません。至高の王、神聖にして平安の源であり、信仰を管理し、安全を守り、強力かつ全能で、限りなく尊い方なのです」 クルアーン解釈学者であるイブン・カスィールはアッサラームの意味について、あらゆる欠点や欠陥がない完全な存在を意味すると言っています。アッラーは完全無欠なのです。かれは永遠であり死ぬことはありません。かれは忘れることはありません。またクルアーン解釈学者であるアル・クルトゥビーによると、アッサラームには3つの特性があると言います。1つ目は、アッラーは間違いをしないこと。2つ目は、アッラーは楽園でそこの住人にサラームを与えることです。 36章58節:「慈悲深き主から平安あれとの言葉もあります」 3つ目は、アッラーは不正(ズルム)をしないこと です。 リヤードアッサリヒーンとイマームナワウィの40ハディースによると、次のようなハディースがあります。これはハディースクドゥスィーです。アッラー曰く「わたしのしもべたちよ。わたしは私自身に対する不正(ズルム)を禁じました。そして私はあなたがたの間における不正を禁じました。だからお互いに不正をしてはいけません」ムスリム このハディースの教訓とは何でしょうか。不正のあるところに平和や平安はないということです。だから自分と他人とアッラーに対して不正をしないことです。自分自身に対する不正とは何か?それは罪を犯すことです。では他人に対する不正とは何か?それは他人の権利を侵害すること、約束を破ること、裏切ることです。これはクルアーンの5章8節に記されています。ではアッラーに対する不正とは何か?それはシルクを犯すことです。この不正を避けなければ、アッラーからの安全や平安はありません。特にシルクについてはクルアーン4章48節で厳しく言及されています。 誠にアッラーは、(何ものかを)かれに並置することを赦されない。それ以外のことについては、御心に適う人を赦します。アッラーに(何ものかを)並置する人は大罪を犯す人なのです。 逆に、クルアーン47章7節曰く、 「信仰する人よ、あなたがたがアッラーに助力すれば、かれ(アッラー)はあなたがたを助けられ、その足場を堅固(けんご)にされる」とあります。 イスラームの語源:スィルムとサリマ イスラームは平和の実現方法です。心の平和、体の平和、家庭の平和、社会の平和、世界の平和、この世だけでなくあの世における平和を実現する方法です。 ムハンマドがローマ皇帝に書いた手紙の内容にある「アスリム・タスラム」という言葉が有名です。その意味は「ムスリムになりなさい。そうすれば安全です」という意味です。 ハディース・ジブリールによれば、イスラームとは5行のことです。2つ目の行は礼拝ですが、イスラームにおける礼拝は、何かをお願いする祈りという狭い意味の礼拝ではありません。ネガティブな思考(例えば、無力感、不安、悲嘆、怠惰、けち、臆病、嫉妬、邪推など)を断ち、ポジティブな思考(アッラーという原理原則:平和、真理、豊か、賢明、感謝、親切、公正、光明など)へと心の力を前向きにするための方法なのです。 礼拝は、みだらな行為と悪行から人を遠ざけるための方法でもあります。 そして礼拝後のドゥアとして、ムスリムはアッサラームを口にします。 アッラフンマ・アンタ・サラーム・ワミンカ・サラーム アッラーよ、あなたこそ平安の源であり、あなたから全ての平安は来るのです。 しかしなぜ礼拝の後にこのドゥアをするのでしょうか?それは礼拝の間に犯した間違いから守ってもらうために祈るのです。例えば十分集中(フシュー)できなかったことです。 いつも忙しくて、礼拝中も仕事のことが気になってしまう。家族のことが気になってしまう。もし自分の礼拝が適切でなかったらアッラーに受け入られるはずもなく、自分には気づいていない間違いから守って欲しいという願いから祈るのです。 アッラフンマ・アンタ・サラーム・ワミンカ・サラーム またクルアーン6章127節と10章25節にあるように、楽園(ジャンナ)はダールサラーム(平安の住まい)と呼ばれます。なぜなら、そこには心配、疲れ、悲しみ、憎しみ、対立などネガティブなものが一切ないのです。そこではアッサラームアライクムという天国言葉が飛び交います。この意味は、私はあなたに何も害を与えませんという意味です。 最後になりますが、イバードゥラフマーン(慈悲深い方のしもべ達)のクオリティとして クルアーン25章63節を読み上げます。 「慈悲深き方のしもべ達は、謙虚に地上を歩く人、また無知の人が話しかけても、平安あれと言う人である」つまりムスリムは無知に対してサラームで答える宗教なのです。(完)

アッラーを信じるメリット

アッラーを信じるメリット

2020-04-14T23:32:16

アッラーを信じるメリットとは何でしょうか?   1つ目は、魂の救済、つまり来世で天国に入ることです。   悪行をしても善行で帳消しになるなど、イスラームでは非常に天国へ行きやすくなっています。   2つ目は、心の支え、安心、孤独感からの解放、ストレスの軽減があります。   すべての人には確かに宗教が必要です。 この世は不安と苦に満ちています。人間自身の中に、 抜きがたい愚かさが潜んでもいます。   自分が得られてそれで満足すれば良いのですが、 今度は自分だけが得たいと望みはじめます。   成功して優越感を持つと、今度は他の人々を見下すようになります。   嫉妬、強欲、独占欲、ひがみ、妬み、いじわる、など どれほど科学が発達しようと人間には抜きがたい性質を持ちます。   人間は確かに救われがたい。富が増えて、豊かに生活ができても、それで感謝せずにそれ以上を望むようになる。時に、貪欲に富を集めようとする。豊かで多くの物が手に入れば、救われるかと思いきや、他人が持っていない物が今度は所有したいと望む。優越感がいつでも顔を出してくる。真に必要なのは宗教である。人間の性格は不変である。変えがたい人間の性格。変えがたいからこそいつの時代も宗教は人々に求められた。宗教にはそんな人間に対する許しがあり、救いがある。変えがたい人間の性格の欠点に温かき愛を投げかける。宗教は人類皆兄弟であるという安心感を与える。人類は他の人や国に勝つことを最上の目的にしているわけではなく、人間1人1人が、この世界と対峙していることを教えるからだ。貧富の差はある。知的レベルも異なる。容姿も異なる。考え方も異なる。真剣さも異なるが、一人一人がその程度に応じてこの世界と対峙する。そして同じ人間としてこの世に生をもたらされたこと。同じ時代にもたらされたこと。色々あるが、それでも共に生きていくこと。苦労も共有すれば楽しくなること。それらのことを宗教は教える。   3)生き方の軸が確立する:善悪の区別がつく 自分の行動にはっきりとした目的や目標が出来る   意志力を鍛える:何をやっても長続きしない人   ・非常に完成された教義体系を持っており、一生あっても勉強しきれず、楽しい。 ・日本では、信者は知的なひとが多く、宗教的知性を追い求める人には勧められる。   探究心の火をともす。今まで学ぶことをまったく知らなかった人々に、知的刺激を与える。ある人は、その刺激で学問の道に目覚めさせることもある。宗教には、その役割がある。 経済的な富、社会的な名声、人々の信頼を得れば、生活もさぞ快適であろう。確かに衣食住を整えられることは重要である。誰も否定はしない。だが、それだけに留まるならば決して生きるという意味を何も理解せずにこの地上での生が終わったということになる。もたらされた結果が良かったとしても、自分を真に変えたことにはならない。確かに豊かになれば快適であるし、それなりの自信も生まれもしよう。豊かであれば、問題も緩和されやすい。だが死を前にすれば人間は真に見つめざるをえない。いずれ全てのメッキは、はがされる。死を前にしたときに、人生とは、成功哲学が述べているような内容などとはまったく異なることを知る。人生において何を真に学び、何を真に実践するかを真に知ることになる。死を前にするお年寄りが成功哲学など本気で学ぶだろうか?   以前、東京で道に迷ったことがあります。途中、目的のトルコ大使館への行き方を尋ねて見たところ、「ここから大使館には行けませんよ。道の反対側から行かないと」という答えが返ってきました。私たちは人生の正しい地図をわかっていないといけません。私たちの人生の全地図を持っているのは誰でしょうか?アッラーです。同じように、自分という間違った出発点から出発していたのでは人生の目的にたどり着くことはできません。私たちが今こうしている存在しているのは、アッラーがそう願われたからなのです。私たちはアッラーによって、そしてアッラーのために作られました。このことが理解できるまで、人生は決して意味を持ちません。アッラーにあってのみ、私たちは自分の起源、アイデンティティ、意味、目的、重要性、そして行き先を見出すことができるのです。   成功を収めることと人生の目的を達成することは決して同じではありません。人生とは神の目的のために、自分自身を用いていただくことであって、神を自分の目的のために利用することではないのです。私はこれまでに「人生の成功を発見する」といった類の本を何冊も読んできました。これらは全て自己啓発に関する本で、自分を中心とした視点で書かれています。自分の夢について熟考する、価値観を明確にする、高く目標を設定する、どんなことが得意かを考える、目標を達成するまでの諦めない、などです。もちろん、これらのアドバイスはあなたを成功に導くことでしょう。しかし成功を収めることと人生の目的を達成することは決して同じではありません。あなたが人も羨むほどの成功を収めたとしても、神があなたを造られたその目的を忘れてしまっては元も子もないのです。あなたには自己啓発的アドバイス以上のものが必要なのです。それがクルアーンです。クルアーンは自分に合った職業を見つける方法や、夢を実現する方法や、人生計画の立て方を教える本でありません。いかに過密なスケジュールに活動を組み込めるかを教えているわけではありません。むしろどうしたら活動を減らせるか?本当にすべきことに集中するべきかを教えているのです。アッラーはクルアーンではっきりと人生の5つの目的について語っています。その意味でクルアーンは私たちの人生の取扱説明書であり、私たちが生きる理由、人生のカラクリ、避けるべきこと、将来に何を期待すべきかなどが説明されています。 神はあなたの人生の出発点であるというだけでなく、人生の源です。 人生の目的を発見するためには、神の御言葉に耳を傾けなければなりません。 私たちの人生は流行りの心理学や成功哲学ではなく、永遠の真理という土台に築き上げていかなければならないのです。

イスラームの思考:心の力を前向きに使う

イスラームの思考:心の力を前向きに使う

2020-04-14T23:32:15

私たち1人1人の心には隠された力があることを皆さんご存知でしょうか? それはものを作り出す力です。 信じたこと、イメージしたことを現実にする力です。自動車、飛行機、月行く 世界は大いなる力・真理で成り立っているわけで、人はその力を神様と呼び、イスラームではアッラーと呼ぶわけです。   否定的な思考を打ち消す。 自らの考えが本当の敵。 病は気からは本当:3大死亡原因:がん・心筋梗塞、脳卒中 心の10大疾患をあまり気に留めない。でも日頃から深く蝕まれています。 ・邪推(ザンヌ) ・嫉妬(ハサド) ・悪口(ギバー) ・不正(ズルム) ・うそ(カズィバ) ・怒り(ガダブ) ・自慢(ウジュブ) ・虚栄(キブル) ・誇示(リヤ) ・けち(バヒラ) 具体例: ・邪推 「信仰する人たちよ、邪推の多くを祓え。本当に邪推は罪なのです。無用の詮索をし、陰口していけません。死んだ兄弟の肉を、食べるのを誰が好むでしょうか」(49章12節) 「邪推に気をつけなさい。本当に邪推は誤解を招きやすい話です」 アブーフライラのハディース(ムスリム6214、ブハーリー90) ・嫉妬 嫉妬に気をつけなさい。本当に嫉妬は火が木を燃やすように善行を食い尽くすのです。 (アブーダーウード ハディース4855)

イスラームについてわかってきたこと

イスラームについてわかってきたこと

2020-04-14T23:32:14

その1:断トツ1位の歴史、老舗中の老舗 イスラームはアダムの時に産声をあげ、ムハンマドに至るまで数千年の年月を経て 伝えられてきた世界最古の宗教です。例えば、歴史的に有名なノア、アブラハム、モーゼ、 イエス、ムハンマドも全員イスラームの預言者です。   その2:世界18億人の信者(スンニ派16億人は単独宗派での信者数で世界No1) ムスリムは世界194カ国に住み、18億人にもなると言われています。つまり現在でも18 億人の様々な国籍の人間が、イスラームを学び実践する必要性を証言しているわけです。   その3:超スッキリした、神と人間との関係 全ての目に見えるものは「知的にデザイン」されたものです。つまり何らかの意図や目的 が必ずあるということです。では人間がこのようにデザインされた意図は何でしょうか? 啓典クルアーンによれば、それは神にお仕えするためです。人間の妄欲に服従するためで はありません。しかも神は唯一の創造主で、創られたものとは異なります。神は無限で、 始めも終わりもなく、時間・空間・質量に縛られず、栄養も休憩や睡眠も必要としません。   その4:世界で唯一、完全に神の言葉が保存されたクルアーン 神に服従する人間の目的の正しさは、どのように担保されているのでしょうか?それは約 1400年前に啓示されたクルアーンによって担保されています。クルアーンには天文学、 地質学、海洋学、遺伝学、人体発生学などに関する記述が多くあります。そして現代科学 の手法で分析しても、全く矛盾のない内容になっています。言語的にも模倣不可能とされ ています。昔から口伝を通して人々に完全に記憶され、現在も原典の言葉のアラビア語で 読まれ、日常生活でも使用されている世界で唯一、完全に保存された神の言葉です。   その5:「歴史を創った100人」の世界No1はムハンマド アメリカの天文物理学者マイケル・H・ハート博士は、著書「歴史を創った100人」の ランキングにおいて、ムハンマドを世界No1にしました。キリスト教徒が多数派の国に おいて、彼を一番高く評価した理由は何でしょうか。それはムハンマドが、世界に類を見 ない偉大な宗教的リーダーと同時に、優れた政治的リーダーだったという理由でした。混 迷を極める世の中において、彼のリーダーシップから学ぶべき点は多いでしょう。   その6:社会悪と闘う具体的な方法 人間は生きている中で、様々な過ちや罪を犯します。それらは社会悪として私たちを取り 囲んでいます。イスラームでは5行を実践することで心の悪と闘います。1)シャハーダ (信仰証言)→創造主と被創造物の違いを認め、信仰対象を明確にします。2)サラート (礼拝)→1日5回の礼拝によって、心身を浄化します。3)ザカート(定めの施し)→ 貧困という社会悪を削減する仕組みで、親切心を強化します。4)サウム(ラマダーン月 中の断食)→断食によって自制心を強化し、悪行を削減します。5)ハッジ(メッカ巡礼) →巡礼の旅によって、神に服従する犠牲心を強化します。   その7:現世だけでなく、来世で成功する 人間は必ず死にます。死後天国に入ると思い込んでいる人がいますが、確証はありません。 啓典クルアーンによれば、善行の実践は、現世における社会悪を減らす効果があるだけで なく、善行として記録され、罪が赦され、来世における報奨(永遠の楽園)が神によって 与えられます。大罪を犯しても、神の慈悲を願い改心すれば、赦されない罪はありません。

クルアーンの奇跡

クルアーンの奇跡

2020-04-14T23:32:13

クルアーンの奇跡 人間のイマーン(信心)は強弱変化します。ジュンドゥブ・イブン・アブドゥッラーが伝えたところによると、「私たちは預言者と共にいた強靭な若者で、私たちはクルアーンを学ぶ前に信心を学びました。それからクルアーンを学び、私たちの信心は強化されたのです」(イブン・マージャVol. 1, Book 1, Hadith 61:サヒーフ)とあります。クルアーンを学ぶことで信心は強化され、アッラーの命令や禁止事項を守る善行へとつながるのです。 クルアーンの学び方は一様ではありませんが、信心を強化する上で有効な方法の1つは内容をよく理解すること、とりわけクルアーンの奇跡について気づきを得ることです。4章82節いわく、「かれらはクルアーンをよく考えてみないのでしょうか。もしそれがアッラー以外のものから来たとすれば、かれらはその中にきっと多くの矛盾を見つけることでしょう」とあります。アッラーはクルアーンを反証テスト(嘘発見テスト)にかけなさいと、人に何度も繰り返し述べています。クルアーンは約1400年前に完成したアッラーの言葉(啓示)で、現在まで内容が全く変わっていないにも関わらず、当時では科学的に不明であった印がたくさん記されているのです。 反証テスト1「太陽は軌道を移動しているのか?」21章33節「かれ(アッラー)こそは、夜と昼、また太陽と月を創造された方である。すべて(天体など)は軌道を移動している」。天文学と太陽物理学によると、太陽は太陽系の中心に浮かんでいるというよりは、秒速約240kmで宇宙空間を移動し、約2億年かけて、天の川銀河系中心の周りを1公転していることが近年発見されました。反証テスト2「淡水と海水の間に壁はあるのか?」。25章53節「かれ(アッラー)こそは、2つの海を分け隔てられた方である。1つは甘くして旨い、もう1つは塩辛くして苦い。両者の間に壁を設け、完全に分離した」。海洋学によると、淡水と海水の間には汽水域や塩分躍層と呼ばれる「壁」があることが近年発見されました。反証テスト3「山々は杭なのか?」78章7節「また山々を、杭としたではないか」。平らな地面の上に三角の山がのっているのではありません。山の地底構造は氷山のように深い根を持っていることが近年発見されました(アイソスタシーの原理)。反証テスト4「土の元素と精液は関係しているのか?」23章12節・13節「われら(アッラー)は土の元素から人間を創った。そしてわれらはかれを精液の一滴として、堅固な住みかに納めた」。泌尿器科学と土壌学によると、人間の精液には鉛、カドミウム、ニッケル、銅、鉄、亜鉛など微量金属元素が含まれており、これは土壌の成分元素と同じということが近年発見されました。反証テスト5「ヒトの性別は男性の精液が決めるのか?」53章45節・46節「本当にかれ(アッラー)は、男と女の組み合わせを創った。精液を吹き込むことで」。遺伝学によると、男性の精液(XY染色体)が性別を決めていることが近年発見されました。反証テスト6「家畜のミルクは血液なのか?」16章66節「また家畜にもあなたがたへの教訓がある。われら(アッラー)は、家畜の腹の中の消化物と血液の間から、あなたがたに飲料を与える。そのミルクは飲む者にとり、清らかで快適である」。畜産学によると、胃を経て消化吸収された栄養素は、血液によって血管を通じて乳房の中にある乳腺細胞に運ばれ、その乳腺細胞が、血液中の栄養素を取り込んでミルクの成分を作り出すことが近年発見されました。反証テスト7「蜜を集めるのはメスの蜂だけなのか?」16章68節・69節「またあなたの主は、蜜蜂に啓示した。丘や樹木の上に作った屋根の中に巣を営み、(地上の)各種の果実を吸い、あなたの主の道に従いなさい。それらは、かの女(メス蜂)の腹の中から種々異なった色合いの飲料を出し、それには人間を癒すものがある」。果実を吸い、主の道に従い、腹の中などすべてアラビア語の女性形が使用されています。養蜂学によると、メス蜂だけが働き蜂として蜜集めなどをすることが近年発見されました(オス蜂は生殖行為だけ)。その他、科学的に反証できる印が多数記されていますが、今まで1つも反証(嘘だと証明)されておらず、クルアーンの奇跡(真理)を物語る証拠として現在も生き続けているのです。

なぜアッラーのみが崇拝に値するのか?

なぜアッラーのみが崇拝に値するのか?

2020-04-14T23:32:12

なぜアッラーのみが崇拝に値するのか? ・創造主がいない世界はない ・被造物は常に消えてなくなる (先祖、人間、偶像、お金、権力など) ・人間として正しい判断 アッラーとは? ・天地における神 ・創造主 ・唯一で全能 ・同位者も親も子もない ・英明で全知(審判の日の知識) ・保護者で援助者 ・裁決者 ・至高・至大 ・死なせ・生き返らせるお方 ・すべての帰り所 アッラーを知ること① 「かれこそは天における神、また地における神であり、英明にして全知なのです。諸天と地の大権、そしてその間のすべてのものが帰属する方、かれに祝福を。またかれの御元にだけ(審判の)時の知識はあり、われらの御元にあなた方は帰されるのです。かれの他にかれらが祈るものは、執り成しをする力はない。ただ真理を認めて、証言する者は別です。もしあなたがかれらに、誰がかれらを創ったのですかと問えば、必ずアッラーと言う。それなのにかれらはどうして(真理から)迷い去るのでしょうか」(クルアーン43:84-87) アッラーを知ること② 「またこのようにアラビア語でクルアーンをあなたに啓示したのは、あなたが諸都市の母(マッカ)とその周辺の者に忠告し、また疑いの余地のない召集の日について忠告するためです。(その日)一団は楽園に、また一団は地獄の火の中へ(入ります)。アッラーがお望みなら、かれらを1つの共同体にされたでしょう。でもかれは、御心に適う者を慈悲の中に入れ、悪行の者には、保護者も援助者もいません。もしくはかれらは、かれを差しおいて保護者を求めるのでしょうか。だがアッラーこそ保護者であり、また死んだものに生を授ける方、すべてのことに全能な方です」(クルアーン42:7-9) アッラーを知ること③ 「確かに不信心の者たちは言われるでしょう。あなた方の互いの嫌悪よりも、アッラーからのあなた方への嫌悪ははるかに大きい。あなた方は、信仰に呼び掛けられたのに、拒否したからである。かれらは言うでしょう。主よ、あなたはわたしたちを2度死なせ、2度甦らせました。今わたしたちは罪を認めました。何とか脱出する道はないですか。そんなことになったのは、唯一のアッラーを信奉するようにとの呼びかけを拒否して、かれに同位者が配される時には(それらを)信じたからだ。裁決は、至高にして至大なアッラーのものである」(クルアーン40:10-12)  

イスラームは正しい宗教なのか?

イスラームは正しい宗教なのか?

2020-04-14T23:32:11

イスラームは正しい宗教なのか? 答えは?イエス?もしくはムハンマド?(笑) 世界には10億人の無神論者がいる。 日本の約3割は無神論者と言われているが、実情は不可知論者。 神がいるかいないかわからないけれど、どっちでも気にしない、 特に気にしない、意識しない。   でもムスリムは神を信じることが「正しい」から信じている。 ではなぜ正しいと信じているのかが重要なポイント。   イスラームが正しい宗教であるとするなら、それはなぜ? 「正しい」ことをどうやって知るのか?   それは信仰や崇拝の対象は何か?を見極めること。   世界のほとんどの宗教は、何らかの形で大なり小なり「人間」が崇拝対象に絡んでいる。 でもイスラームはこの絡みを、明確に厳格になくしてきた。 崇拝対象に値するのは全知全能の神アッラーだけだと。   クルアーン22: 31は言っている。 「アッラーに神々を配する人は、 まるで空から落ちて、鳥がさらった人のようです。 または、風が遠い所に吹き飛ばした人のようです」

名誉の保護と陰口の禁止

名誉の保護と陰口の禁止

2020-04-14T23:32:09

名誉の保護と陰口の禁止 アル・ブハーリとムスリムによれば、アブ・バクラは次のように伝えました:預言者は最後の説教でこう言いました。「確かに、あなたの生命、財産、名声は不可侵です」 また、アル・ブハーリとムスリムによると、預言者は次のように語りました。 「互いにうらやんだり、人為的に価格を上げたり、互いを嫌ったり、互いに背を向けたり、互いを損なったりしないでください。アッラーの僕よ、兄弟たちよ。ムスリムは他のムスリムの兄弟です。互いを悪く扱ったり、失望させたり、軽蔑したりしてはいけません。アッラーを意識する心(タクワ)がここにあります」と彼は胸を3回指しました。「ある人がムスリムの兄弟を軽蔑するのは十分な悪です。あるムスリムは、別のムスリムの血、財産、名誉にわたるすべてを犯してはいけないのです」 名誉(アル・イルドゥ)の保護は、アラビア文化の中心的な概念です。 ティルミズィによると、アブー・ダルダーが次のように伝えました。誰でもムスリム兄弟の名誉を守る者は、復活の日、アッラーが彼の顔を地獄の火から守ってくださるでしょう。 イスラーム法の目的(マカーシド・アルシャリーア)は5つの必須なものを保護することを目指しています。5つの必須なものとは、宗教、心、魂、財産、名誉です。名誉は人生における5つの必須なものの1つです。だから、ある人の欠点や至らない点(間違いや罪)からその名誉を保護することを保証します。学者たちは、イスラームなくしては、人間はそれら5つを失うことで混乱に陥っていたと指摘します。 陰口は大罪です。アッラーがクルアーン49:12でいわく、 「信仰する人たちよ、何としても邪推するのは避けなさい。それには罪になるものもあります。また互いにスパイ行為をし、また陰口してはいけません。誰が死んだ兄弟の肉を食べるのを好むでしょうか。いいえ、あなた方はそれを忌み嫌うはずです。アッラーを意識しなさい。アッラーは改心を受け入れる方であり、慈悲深い方です」 陰口を言うことで、あなたが嘘つきになるかもしれません。 ムスリムのハディースによると、預言者(アッラーの祝福と平和が彼の上にある)は、陰口の明確な定義を与えました。彼は言いました。「あなたは陰口が何であるか知っていますか?」彼らは言いました。「アッラーとその使徒が最もよく知っています。彼は言いました。「あなたがあなたの兄弟について、彼が嫌いなことを言うときです。彼らは言いました。私が私の兄弟について言うことが真実ならどうでしょうか。彼は言いました。「もしそれが本当なら、あなたは彼について陰口をしたことになるのです。そしてもし真実でなければ、あなたは彼について重大な嘘をついたことになります」 もちろん、イスラーム法の学者たちは、6つのケースにおいて批判は陰口ではないと言っています。ひどく扱われたことに不満を表明すること、ある人を特定すること、ある人について注意を促すこと、悪事を暴くこと、ファトワを求めること、悪を取り除く助けを求めることです。 しかし、これらのケースは正義をもたらすというよりは、再び同じ問題が起きないように予防するためです。人々は、他人の動機や行動について疑うことや推測を控え、間違っていることと、意見の違いや解釈の違いを区別するために、健全なイスラームの知識に頼らなければなりません。例えば、ある事件が起きた時、それを両方側の意見をじっくり聞いて分析する必要があるのです。一方の意見だけ聞いて、相手が悪いというのは正しくありません。 したがって、根拠のない疑いや悪い感情に基づく批判は、中傷された人を傷つけるだけでなく、コミュニティの不和やムスリムの分裂を引き起こすため、ハラームです。 陰口と疑いに対する預言者からの厳しい警告があります(アッラーの祝福と平和が彼にあります)ので、あなたが彼についてあなたが言った陰口を聞いたなら、あなたの兄弟に謝り、赦しを願うことを急いでください。彼が陰口について聞いていないなら、あなたはアッラーの赦しを求め、あなたの兄弟のために祈るべきです。 アル・ジルジャーニは次のように述べています。陰口とは、ある人がいないところで、その人の陰口をいうことです。それが真実でない場合、それは重大な嘘であり、それが彼の面前で言われている場合、それは侮辱なのです。 預言者は言いました。「ムスリムを侮辱することは、邪悪な行為であり、ムスリムと戦うことは不信仰を意味します」 では解決策は何か? 問題があれば、問題がある当事者間の間で解決することです。それができなければ公式に裁判をすることです。 自分のことを相談することは問題ありません。しかし、他人の陰口を言っている暇があれば、アッラーのことを思い出すことです。もしくは仕事の話をする方がよっぽどマシです。要するに人の話をしないと言うことです。この人はどうだとか、あの人はどうだとか、これは時間の無駄だけでなく、6つのケースを除いてはイスラームではハラームです。これはバラカのないことです。もっとアッラーからのバラカが欲しいのであれば、人のことを話すことを今からやめましょう。

人類は有史以来、唯一神教

人類は有史以来、唯一神教

2020-04-14T23:32:08

文化人類学の父と呼ばれたエドワードタイラー元オックスフォード大学教授が『原始文化』という本の中で、宗教は自然崇拝・精霊崇拝・死者崇拝から多神教そして一神教に高度化したのだと主張します。しかし20世紀の考古学の発見は、逆の結果を示しました。例えば、アッシリア学の権威であったステファン・ラングドン元オックスフォード大学教授は、バビロニアで碑文を発見し、その碑文によると人類最初の宗教は唯一神の信仰であって、そこから急速に多神教と偶像崇拝に傾いていったと主張しています(ラングドン著『セム族の神話Semitic Mythology』)。ムスリムも同様な見解です。唯一神教は人類の祖アーダムから存在しましたが、徐々に人間社会は多神教・汎神論・無神論に傾き、約1400年前、預言者ムハンマドの登場で唯一神教への回帰が唱えられました。人類の有史以来唯一神教はあったのです。そうであれば、ムハンマドの登場でイスラームが完成する以前に存在した様々な宗教にも、その原点は唯一神への信仰であったのではないかと考えられるのです。

なぜムスリムは礼拝するのか?

なぜムスリムは礼拝するのか?

2020-04-14T23:32:07

従来の平和研究では、社会における暴力の発生を社会病理と捉え、これまで発生してきた暴力の関係性を解明する努力をしてきた。その射程は軍事問題、貧困問題、人権問題、地球環境問題などが中心であった。しかし、暴力はそもそもどこから発生するものか?社会の平和実現において、個人の心の問題は平和研究の中心となってこなかった。また情報収集して知識を蓄える以外には、誰にでもできる具体的かつ日常的な平和実践方法を示してこなかった。個人の心の平和とその具体的実現法は古今東西、宗教の専門分野であり、平和と宗教は切っても切れない仲である。例えば、イスラームには日常的にできる平和の実践方法として礼拝がある。そこで今回は、1)イスラームと平和の関係、2)心の平和と礼拝の関係、3)礼拝の仕組みについて明らかにすることを目的とした講演を行なう。 方法と結果 ・イスラーム関連文献の精読と分析により、イスラームとは1)心身の平和、2)家庭の平和、3)社会の平和、4)世界の平和の実現に向けた教えおよび実践方法であることがわかった。 ・平和を実現する方法としてイスラーム五行があることがわかった。 ・礼拝は、ネガティブな思考(無力感、不安、悲嘆、怠惰、けち、臆病など)を断ち、ポジティブな思考(アッラーという原理原則:真理、富裕、賢明、平和、感謝、親切、正義、光明、偉大、無限、赦しなど)へと心の力を前向きにするための方法であることがわかった。 ・礼拝は、みだらな行為と悪行から人を遠ざけるための方法であることがわかった。 ・礼拝の分類として、レギュラーな礼拝とイレギュラーな礼拝があることがわかった。例えば、レギュラーな礼拝として毎日5回の義務礼拝、金曜合同礼拝、任意礼拝の一部があり、イレギュラーな礼拝として旅行中、病気中、葬儀の礼拝などがあることがわかった。 ・心身の平和(清浄)の実践として、礼拝開始前の10要件があることがわかった。例えば、1)ムスリムであること、2)思春期を迎えていること、3)正気であること(酔っていないこと)、4)不浄な状態(ナジス)にないこと、5)大汚(ジュヌバ)にないこと、6)小浄(ウドゥー)の状態にあること、7)露出不可部分(アウラ)を隠していること、8)清浄な場所、9)礼拝時間内であること、そして10)メッカの方角(キブラ)を向いていることである。 ・心身の平和(清浄)の実践として、礼拝中の13要件(義務)があることがわかった。例えば、1)意図を持つこと、2)アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)で開始、3)立礼、4)アル・ファーティハ(クルアーン第1章全7節)を読むこと、5)屈折礼(ルクゥ)、6)屈折礼から起き上がること、7)平伏礼(スジュード)、8)平伏礼の間の座礼、9)最初の証言座礼(タシャッフド)、10)最後の証言座礼、11)預言者への称賛(サラワート)、12)右側へのタスリーム、そして13)これら一連の行為を連続して行なうことである。

ムハンマドは本当に預言者なのか?

ムハンマドは本当に預言者なのか?

2020-04-14T23:32:06

ムハンマドは本当に預言者なのか? A)預言者とは 創造主は自らの存在を知らせるため、人の正しい生き方のお手本となるよう、預言者たちを人類の中から選びました。アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドを含むすべての預言者たちは、共通のメッセージでつながっているのです。 ムハンマドは、預言者になる前から正直で信頼できる人物として知られていました。イスラーム以前の社会において彼は、孤児や高齢者の面倒をよくみて、社会悪を改善することに貢献しました。 B) ムハンマドは嘘つき? ムハンマドの敵さえも、彼が正直で信頼できると評価していました。彼はアルアーミン(信頼できる人)というニックネームを持っていたのです。嘘をつく人は通常、いくつかの世俗的な利得を得るために嘘をつきます。ところがムハンマドは、メッカの首長によりイスラームの布教をやめる条件で、権力や富、そして女性をオファーされましたが、使命を果たすためにすべてを拒否した、というエピソードが残っています。その結果、経済的な困苦に直面したことは歴史的事実となっています。 ムハンマドは狂人で、自分のことを預言者だと思い込んでいたの? 精神病人にクルアーンのような矛盾のない言葉をつくり出すことはできなかったはずです。結論として、ムハンマドは嘘つきや狂人ではなく、預言者であったのです。

クルアーンは神の言葉なのか?

クルアーンは神の言葉なのか?

2020-04-14T23:32:05

クルアーンの保存方法 「本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである」(聖クルアーン15章9節) これまでの啓典や聖書など原文の多くは紛失してしまったのに対し、クルアーンは預言者ムハンマドが受け取った原文のまま、現在から約1400前に書き留められました。その後、クルアーンは預言者ムハンマドの教友たちにより文書化(書籍化)され、それが今日まで世代を越えて引き継がれてきたのです。 時空を超えた挑戦状 「もしあなたがたが、ムハンマドに下した啓典を疑うならば、それに類する1章でも作ってみなさい。もしあなたがたが正しければ、アッラー以外のあなたがたの証人を呼んでみなさい」(聖クルアーン2章23節) アッラーは人類に対し、クルアーンの起源に疑問を抱くならば、クルアーンと同じような1章でもつくることができるのか、と時空を超えた挑戦状をつきつけています。クルアーンの文学的・言語的奇蹟への挑戦と言えるでしょう。 アラビア語に用いられる28の文字や文法的な法則、クルアーンのアラビア語は実に完璧であり、誰にも作り出せないと言われています。もちろん、預言者ムハンマドの時代にも詩人や言語学者たちはいたが、クルアーンのような章は到底つくれませんでした。 科学的理由 クルアーンの言葉は、科学的にアッラーの権威(力)が真実であることを理解できるようになっています。 2つの例を挙げでみましょう。 宇宙論 「われは力で宇宙(天空)をつくりました。そしてわれは(宇宙を)拡大するのです」(聖クルアーン51章47節) これは1929年にエドウィン・ハッブルによって発見された宇宙の拡大と一致しています。 人体発生学 「それからわれは、その精滴を一つのアラカに創り、次にそのアラカから肉塊を創り、次いでその肉塊から骨を創り、次に肉でその骨を覆い、それからかれを外の生命体に創り上げた。ああ、何と素晴らしいアッラー、最も優れた創造主であられる」(聖クルアーン23章14節) 「アラカ」とは、ヒトの胚子に使われる言葉で、その意味は(1)つり下がっているもの、(2)血の塊、(3)ヒルです。現在の顕微鏡を用いると、ヒルと胚子は形状が著しく似ていることがわかります。22日目から25日目の段階で胚子は肉眼でも辛うじて見えますが、穀粒ぐらいの大きさなので、顕微鏡なしでは分析することが不可能なのです。顕微鏡は16世紀ごろの発明と知られているので、7世紀当時にどうやってこれほど正確な描写ができたのか疑問が残ります。 人間の胎児とヒルの写真 1点注意しなければならないのは、科学的に現在不明なことでも、新たな科学的発見によって後日明らかにされることがあります。ただし、クルアーンの中に科学的知識に合わないと思われる言葉があっても、それは科学の限界を意味しているのであって、クルアーンの言葉が間違っていると判断するのは性急です。例えば、つい最近まで科学者は、宇宙のはじまりはないと信じてきましたが、今は宇宙のはじまりが存在することが広く認知されています。換言すれば、科学がクルアーンの真実に追いつき、そして神の言葉であるクルアーンを追認しているのです。 歴史的理由 クルアーンに啓示されている歴史的な出来事には、とても興味深いものがあります。例えば、クルアーンにはエジプトの2つの異なる時代背景が記されています。1つは預言者ユースフ(ヨセフ)の時代、そしてもう1つは預言者ムーサ(モーセ)の時代です。 クルアーンによると、預言者ユースフの時代には、国を治めていたのは「王」とされ、預言者ムーサの時代は、フィルアウン(ファラオ)でした。聖書や多くの歴史的書物によると、古代エジプトを治めていたのはファラオでした。ファラオはクルアーンにも74回出てきます。一方、ヨセフの章では、フィルアウンではなく、当時国を治めていた人物は「王」としています。 「(エジプトの)王が言った。「わたしは7頭の肥えた牛が,7頭のやせた牛に食われているのを(夢に)見ました。また穀物の7穂が緑で、他(の7穂)が枯れているのを見ました」(聖クルアーン12章43節) 19世紀後半に発見された古代エジプト文字ヒエログリフを解読すると、 預言者ユースフの時代に国を治めていたのはヘクサスという「王」であったということがわかっています。預言者ムハンマドの時代には、これらの情報がないにもかかわらず、クルアーンには正確に歴史をしるしています。 数字の一貫性 例1 クルアーン第2章は286節あり、9年間にわたって各節部分部分に啓示されました。興味深いことに、この章の真ん中の143節(ちょうど章半分となる節)にある「ワサット」という言葉は、アラビア語で「真ん中」や「正義」そして「調和」を意味する言葉なのです。 例2 クルアーンに繰り返しでてくる言葉の回数を見てみると、数字的な驚きがたくさん見つかります。例えば、人間という言葉が65回記されているのに対し、人間の発達に関する言葉は、土(17回)、一滴の精子(12回)、胚子(6回)、肉の塊(3回)、骨(15回)、肉(12回)。すべて足すと65回になるのです。さらに、男性という言葉を23回使っているのに対し、女性も23回述べられています。人間の染色体が46本だと考えると、男性23回+女性23回でちょうど46になるのです。 Reference: http://www.miraclesofthequran.com/mathematical_01.html クルアーンが23年間にわたり部分部分に啓示され、その多くが特定の出来事に関連していたことを考えると、このような数字的一貫性は人智を超えたものであることがわかるでしょう。このように、数多くの理由からクルアーンが人間の手によってつくられたとは考えにくいのです。なので、クルアーンはアッラーの言葉と推論できるでしょう。